「考える」か「学ぶ」かはケース・バイ・ケース
「考える」ことが大切だと言われます。
確かに「考える」と頭は鍛えられ、良いことが多いと思います。
また、「学ぶ」こと、言い換えるならば「覚える」ことも大切です。
既に知られている知見を学べば、すぐに活用することができるからです。
自分で「考える」か、調べて「学ぶ」かは、ケース・バイ・ケースなのです。
「1+1=?」
例えば、小学校で算数を習い、「1+1=2」であることを学びます。
数学に詳しくない私の想像ですが、学問的には面白いテーマにつながるのかもしれませんが、小学校では計算の基本として習います。
以下では、「1+1」について考えてみます。
ベクトルや個性の視点から「考える」
ベクトルの考え方を取り入れると、「1+1」は、-2から+2までのいずれかであるとも考えられると思います。
縦軸と横軸があり、その交差点が0となる図を思い浮かべていただきたく思います。
(1)「1」と「1」がともに横軸上の「+」方向を向いているならば、横軸上の答えは「+2」となるでしょう。
(2)逆に、「1」と「1」がともに横軸上の「ー」方向を向いているならば、横軸上の答えは「ー2」となります。
(3)「1」と「1」が、横軸上の「+」と「-」の間の方向(横軸と縦軸の間の斜め方向や、縦軸上)を向いているならば、横軸上に結果を投影した値をみると、答えは「-2と+2の間のいずれかの数」となると考えられます。
また、「1」が何を意味するかを考えてみることもできます。
(1)「1個のりんご」と「1個のりんご」を合わせて「2個のりんご」と考えられるのは、「りんご」1個1個の個性を捨象して、「りんご」を抽象的に考えた場合に「2個」とするからです。
(2)「りんご」1個1個の個性を重視したならば、そもそも同じ概念で括ることはできないのですから、「1+1」という問題自体がナンセンスです。
社会生活では「1+1=2」などと「学べ」ば十分
このようにいろいろな方向から考えることは楽しいですが、社会生活での買い物や計算で意識することは不要ですし、むしろ有害です。
スーパーマーケットでは、普通に「りんご」の数を数えれば済みますし、余計な議論は相手の迷惑です。
つまり、社会生活を送るには、「1+1=2」と「学んで」おけばよく、「考える」ことは必要ありません。
社会生活の多くの場面では、「学べ」ば十分です。
のどが渇いて水を飲みたいときには蛇口をひねればよい訳ですし、どうして水が出るのかを考える必要はありません。
勉強や仕事でも、「学ぶ」か「考える」かはケース・バイ・ケース
これと同じことは、勉強や仕事でも当てはまると思います。
先人の知恵に学んで解決すれば済むことは「学べ」ばいいですし、問題の背景からきっちりと理解するには「考える」」ことが必要かもしれません。
研究をする際にも、テキストに書いてあることを、すべて自分の手で確かめることは不要であり、「学んで」理解しておけばよいことはたくさんあります。
一方で、理解できなかったり、問題があると考えるなら、「考えて」自分の手で確かめる必要があります。
私の大学受験時代の記憶ですが、数学で考えることを重視し難しい問題に取り組む友人もたくさんいました。
私は、大学入試レベルの問題ならば解法パターンを身に付ければ十分であり、難問を考えることは不要であると考え、難問に時間をかませんでした。
「考える」ことは、専門レベルで取り組む際に取っておいたのです。
このあたりの考え方は、個々人で異なるのは確かです。
「考える」か「学ぶ」かは、どちらかにこだわりすぎるのはもったいなく、場面に応じて柔軟に対応していけばよいと思います。
都内国立大学で、微生物や植物細胞を用いた研究を行った後、がん遺伝子やレトロウイルスの研究を行い、博士(医学)を取得しました。会社員生活を経た後、実定法から基礎法まで幅広く学び、法務博士(専門職)を取得しました。
大学院修了後には、戦略系経営コンサルティングファームに入社し、製造業やサービス業の、業務改革や新規事業開発に取り組みました。その後、創薬系バイオベンチャーで、がん治療に関する研究開発・事業開発を行いました。現在は、訴訟関連の法務サービスに従事しています。