「1番」にこだわりすぎない
「史上最年少」、「世界初」という情報を聞くと、すごいなあ、と感じます。
研究の世界では、既存の知見を確認するだけでは論文になりませんので、「世界初」にこだわるのは自然なことです。
しかし、すべてのことにおいて、「初めて」や「1番」にこだわる必要はないと思います。
子ども時代の自由研究
「初めて」にこだわりすぎて楽しめなかった
私がこのように思うのは、子ども時代から「初めて」にこだわりすぎて、楽しめなかったことに、思いをはせるからです。
夏休みの宿題に、自由研究があった方も多いと思います。
自由研究が宿題にあったのは、何か興味があることを時間があるときに探求してみよう、ということと想像します。
「世界初」であることは期待されておらず、自分で考えて取り組むことで十分なのです。
「画期的」なものを求めてしまった
しかし、私は「世界初」にこだわってしまい、どこか自由研究に対して斜に構えていたと思います。
そのような考えになった理由は、ノーベル賞学者の研究成果に興味を持ち、それが「研究」と名の付くものに求められる水準であると、勝手に思い込んでいました。
加えて、そのレベルは、単に「世界初」というだけではなく、「画期的」な研究であることも求めていました。
そして、小学生が夏休みという短時間で、実験器具も不十分な状態で、「研究」なんかできないと思い込んでしまっていたのでした。
しかし、研究生活を始めてみると、「画期的」なことばかり求めるのではなく、「地道」に積み重ねることの大切さを知らされました。
「画期的」な研究は結果であり、それ自体を求めるものではないのです。
研究時点では目新しさのない、一見して当たり前に思えるものだとしても、その研究成果が将来の「画期的」な研究につながる可能性はあります。
そして、将来の知見を加えて見つめ直すと、「画期的」であったと事後に気付くこともあるのです。
自由な発想も阻害されていた
また、「世界初」を求めすぎることにより、自由に発想することも阻害されていたと思います。
「世界初」かを意識しすぎるばかり、知識を詰め込みが必要と思い込み、頭に浮かぶ発想にふたをしていたと思います。
研究では、論理的に積み重ねて考えることばかりでなく、ちょっとした思いつきも大切です。
まるで関係なさそうな、論理的ではない思いつきが、新発見の端緒になることはよくあるからです。
研究以外でも、最初から高いレベルにこだわらなくてもよいのではないか
研究について書いてきましたが、スポーツをしたり、小説を書いたりすることでも、同じではないかと思います。
スポーツでは、始めた段階では世界記録は無理でも、トレーニングを続けることにより世界水準に到達することはあると思います。
また、最初は文学的価値の高い小説を書けなくても、文章を書き続けることにより洗練されたものを書けるようになるでしょう。
好きなことを自由に楽しもう
高いレベルを目指すことは大切ですが、それにばかりとらわれてしまうことは、むしろマイナス面が大きいと思います。
好きなことを好きに楽しみながら取り組み、気が付けば高いレベルに達していた、ということが私の一つの理想です。
興味があることに取り組み、自分にとっての気付きが得られればよいのであり、他者や社会と比べる必要はないのです。
都内国立大学で、微生物や植物細胞を用いた研究を行った後、がん遺伝子やレトロウイルスの研究を行い、博士(医学)を取得しました。会社員生活を経た後、実定法から基礎法まで幅広く学び、法務博士(専門職)を取得しました。
大学院修了後には、戦略系経営コンサルティングファームに入社し、製造業やサービス業の、業務改革や新規事業開発に取り組みました。その後、創薬系バイオベンチャーで、がん治療に関する研究開発・事業開発を行いました。現在は、訴訟関連の法務サービスに従事しています。